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2015年06月23日

道路冠水

久々にブログ更新したからか本日午後豪雨に見舞われた。
職員は早く家に帰らすことまでは考えていなかったが
17時前になって道路冠水の情報が職員家族から入りあせりだした。
確かに、午後特養施設訪問中にみた気象庁の雨量・降水予報で雨雲がかなり
降りそうな気配はしていた。
「しまった、一歩遅かったか?」職員3人は「なんとか帰ってみる」というが
途中立ち往生の可能性もある。携帯が通じない。固定電話も。
「もし行けないときは、特養か体験交流館に避難するよう」
伝えることしかできなかった。
無事を祈る。FAXが何とか生きているようなので、
「特養に職員が避難してきたらよろしく」とFAXしておく。
体験交流館に固定電話が何とか通じた。今日は臨時で6時に閉める予定だったのとのこと。
「ひょっとするとスタッフも含め、避難する人が来るかもしれないので」と伝えておく。
17時52分携帯鳴り職員から「冠水した道路の横の歩道を車走らせて、大渋滞の末何とか家にたどり着いた」
と連絡あり。
今晩雨雲が西にあり非常に心配だ。

  

Posted by 奄美3340 at 21:51Comments(0)豪雨災害

2012年10月18日

もうすぐ2年

豪雨災害からもうすぐ2年
ブログ今年なんと2回目
更新してないから台風災害に見舞われたのかな?
反省
Facebookとの使い分けがわからず
ブログから遠のいていました。
 豪雨災害のまとめができないままに
のばしのばしで
 足跡みてみると更新してないのに
見てくださってる方がいたようで
まことにすんませんでした。

台風なんとか大丈夫でした。荷物を降ろします

  

Posted by 奄美3340 at 15:49Comments(1)豪雨災害

2011年10月20日

1年たちました

豪雨災害からもう1年経ちました。
この1年いろんなことがありました。
ブログも始めたな。

世界も
社会も
地域も
診療所も
家庭も
体も
心も
記録に残さねば

宇宙からみれば点でしかないけど  

Posted by 奄美3340 at 10:41Comments(1)豪雨災害

2011年06月20日

役場に戻ると

役場2階に戻るとにわかに災害対策本部
となっていた。
 支所職員があわただしく
動きまくっていた。
そこに消防救急隊員。
警察署員もあわさってものものしい雰囲気だ。
名瀬警察署長が検死もせにゃならんといっていた。
しかし何も道具がない。

奥の部屋に骨折患者がいた。
妻の美香の処置で痛みは緩和されて
いるようだった。

夜8時
美香はどこ行ったんだろう?
ふと思った。
そういえばうちの職員や薬局
のスタッフもいない。
炊き出しにいったとのこと。
携帯もつながらなくなっていたので
声も聞けない
妻の姿が見えないと心ぼそくなるもんだ。

内服がなくなったと支所に来た人もいて
私はノートPCで電子カルテを開いて
内服内容を確認した。
わずかではあったが往診かばんに
ある内服薬を渡すことができた。

これからどんな患者が来るんだろう。
往診かばんにあるものだけでは
足りないだろう。

私は診療所にもどることにした。
どうなってるかも心配だった。
暗かった。太ももまで汚水につかりながら
よってみ停に往診する前に診療所
に立ち寄った。
玄関は水の力で開いていた。
玄関を入り携帯の心細い光で照らしながら
みてみおると。廊下に待合室の長椅子
が山盛りになってどこから来たかわからない
ものがうずたかくつもっていて
廊下には入れなかった。
受付の事務室からなんとか診察室へ
暗い中入ってみたが、なんでこうなるの
状態であった。これ以上いても何も
みつけられないと思い
診療所裏の自宅にもよってみた。

家のほうも玄関先まで
家財道具や奥にあったはずの
私のパソコンやごちゃごちゃに
がれき状態で足の踏み場もなく
そのがれきの山を滑り落ちないよう
登って(何度も滑りました。バランス悪)
居間のほうまで入ってみた。

大きな懐中電灯をみつけ
スイッチをひねってみると
奇跡的に点いた。明るい。よかった。
電灯の明るさよ。ありがたい。
部屋中を観察しようと電灯を高くかざそう
とした時急に暗くなった。
電灯の接触が悪いのだ。
何回かカチカチやってると
また点いた。


貴重品も妻に連絡つながらないので
ここにいてもしょうがない。
外に出た。

シュー  何の音だ?確認しようと
電灯ともす。暗くなる。カチカチ
また点く。消える。カチカチ
また点く。シュー

ガスだ。診療所裏に置いてある
大きなガスボンベ2つが倒れて
ガスホースが引っ張られ
一部切れていた。

カチカチしちゃダメ!!
引火爆発するところだった。
元栓を暗闇の中締めた。

危うく丸焦げのメタボ親父が
診療所と自宅の間で
発見されるところだった。

診療所に戻りカチカチしながら
必要なものを泥の中から拾い出して
いった。検死に必要な注射器、定規や
心筋梗塞の判断するキットを倒れた
冷蔵庫から取り出した。

よってみ停に行くときは
もう汚水は冷たかった。

7名の生存者も低体温のまま
震えていた。ストーブがたかれていた。
幸い2名の重傷者もまだ悪化はしていなかった。
酸欠は確実だった。
宇検から酸素ボンベが来るらしい。
間にあうといいが。

頭を大きく切った外傷患者も運ばれてきた。との
情報をもった伝令の方が来られた。
しかし縫合する医療機材まではない。
また診療所に濡れながら戻って
カチカチすることになった。

縫合するための道具を汚水の中から拾い上げていった。
傷を見てみないとわからないが。これで縫うしかない。
抗生剤も必要だろう。
ついでに隣の薬局にもよってみた。
薬局も竜巻が通り過ぎたのか状態だった。
冷蔵庫がなぜか空中に横たわっていた。
その下をくぐりぬけて使えるかも知れない
薬を拾っていった。

支所に戻ると椅子に座った外傷患者がいた。
やはり縫合が必要なくらいだった。頭骸骨が
みえている。眉毛の近くだ。
清潔操作も限界があった。
化膿しないでくれよ祈りながら
わざと細かくなく縫って行く。
(こういうとき細かく縫うと化膿しやすい)
骨折患者は何とか明日名瀬にがけ崩れの横を
歩いていってもらうことにした。

やれやれこれからどうなるんだろう。
透析患者は?臨月の方は?
住用の園はどうなってんだろう。  

Posted by 奄美3340 at 11:53Comments(0)豪雨災害

2011年03月15日

ボートに乗ってよってみ亭へ

名瀬からの救急隊は城集落
のがけ崩れの横をボートを
かついで、東城の内海の
所では海を泳いでようやく
3時間かけて到着。

夕方になっていた。
携帯がつながらなくなっていた。
「遅い!!」
ツッコミ入れたい私に
疲れをみせずT隊長
「先生このボートでよってみ亭に。
乗ってください。」


そいうと私だけボートに乗せた。
数名の隊員でボートを支えながら
50mほどを役場と診療所の間の
冠水した道路を渡らせてくれた。
この水は住宅が汲み取り式の
トイレだったため汚水である。
しかし、彼らはダイバーの
スーツをきていたので
私のようにはならなかった

よってみ亭についてみると
もう夕方の為薄暗かった。
入り口付近には立ち往生
した車の運転手の方々が数人。

奥にはいると和室に
9名が寝かされていた。

小刻みに震え数名はほとんど
うごいていない。

死亡した2人はすぐにわかった。
診断時刻午後5時55分。
他の7人も32度台、低体温である。
生存者のうち2人は水を
おそらく誤嚥したのであろう
低酸素(酸素飽和度70-80%台)
だった。1名は認知症で血圧も
測らしてくれない。暴言を
吐きまくってる


酸素吸入必要だが
往診かばんと緊急セット
しかない
救急隊に酸素お願いするも
宇検から運ぶしかない
つくまで持つか?

ただただ見守るしかない。
必要な医療材料があれば
酸素吸わせて点滴したり
抗生剤点滴していたであろうが。

救急隊から骨折や外傷で
縫合が必要な
患者がいるとの情報入る。
無線でなく情報をもって
往復しているのだ。

ここの患者も重傷だが
経過観察するしかない。
他の重症患者や処置が
必要な患者情報はおそらく
役場に集中する。
私は決めた。
役場に戻ろう。
いつ急変してもおかしく
ないわだつみ苑の方々は
入院患者それも術直後患者
みたいなものだ。
しかし
他の患者も出現するかわからない。
役場で情報察知しながら
この人たちを
経過観察していくしかない。

帰りはもう救急隊はいない。
あたりは闇に包まれていた。
自力で役場に戻るしかない。

その途中に骨折患者の家が
あり遠まわりだが往診した。
腰まで泥水それも汚水まみれに
つかりながら暗闇の中だ。
側溝に足を落とさないように
気をつけながら。
しかし、患者はいなかった。

家人がおり「役場に行ったよ」と。
がくり。携帯でも通じれば

当時、役場の中で妻の美香が
この患者は応急手当で
段ボールを副木
にして処置していた。
  

Posted by 奄美3340 at 00:45Comments(0)豪雨災害

2011年02月25日

そのころ住用の学校では

2010年、10月20日(娘の文章)
奄美大島に集中豪雨が襲った。
学校に異変が起こった時の
、中学1年生の授業は、
理科だった。その時は、
学校の裏にある池の水
が溢れ出し、教室での
授業となった。
皆もいつもより落ち着き
がなく、窓の外ばかり
眺めていた。

2時間目の体育の授業
でグランドが浸かって
いることに気付いていた。
1時間の授業、50分間
の間で、高さ20cmは
浸かっただろうか。

確実に水の高さがあがっ
ていることに何か異変を
感じていた。
11時前後だっただろうか。
2年生の生徒が、ベランダ
で声を上げていた。
1年生はすかさずベランダ
に飛び出した。
 その時に見た光景はきっと、
一生忘れないだろう。
「空いた口が塞がらない」
とは、この事だ。

校庭に裏山の土砂が、
土石流として一気に
流れ出てきていた。
その流れは一向に収まる
気配を見せなかった。
「すぐに旧校舎の美術室
に移動しなさい。」
先生の言葉を聞いても、
一時は流れが収まらない
土砂から目を離すこと
は出来なかった。

移動した後も窓から
上半身をだして流れ行く
土石流から目を離さなかった。

やっと1年生から3年生まで
が落ち着きを取り戻した時、
ある生徒の一言で先生達の
顔色が変わった。
「先生、先生の車、
動かなくなるんじゃないかな。」

聞き終わると同時に、先生達は
すごい勢いで階段を降り、
校庭へ駆け出した。
先生達の車は、丁度、
水がたまりやすい所に
停めてあった。
その現場を、出来るだけ近く
で見ようとした生徒ら何人かは、
先生達の後を追い、1階に
降りて行った。

正直に言って、私はその時は
楽しかった。勉強してる時より、
非難訓練でもないのに全体で
移動する、生まれて初めて
見るものがある。きっと皆も
そうだったと思う。
心配していた人もいるが、
とにかく見たこともない
世界が広がっていることに
驚くだけだった。

3時間目だったその時は、
美術室か、隣にある音楽室
だけでいるように、という
指示があった。口々に文句
を言い出す男子。教室内を
ウロウロしだす女子。
出張している校長とどうにか
連絡を取ろうとする先生。

私は、どうしようもなく
ただ時間が過ぎるのを
待つだけだった。
どの位時間が経っただろうか。
生徒は落ち着きを取り戻したが、
顔色が変わってきたのは確かだった。

再び美術室に集められた生徒は、
教頭に言われた指示に従った。
「給食をとります。だけど、
ここからは動けません。
先生達が給食の食器を運んで
くるから、残さず食べるように」

その時は、先生の言葉の深い
意味は考えていなかった。
ただ、雨がやみそうにない
ことは、空模様から受け取れた。

給食室から先生方の流れ作業で
給食が運ばれた。
何でこんな所で…みんなが
そう思ったはずだ。でも、
誰も口にしようとはしなかった。
箸が進まない生徒に先生は言った。
「時間掛かってもいいから、
全部食べなさい。・・・今日
一晩中ここにいないと
いけなくなるかも知れないから」
みんなの顔がまた一瞬にして曇った。

食べ終わると、みんな渡り廊下
から、校舎に移動し始めた。
本当は校舎に戻るのは、
御手洗いの時だけ、と
言われていたのだが、ほとんどが
教室に戻って静かに座っていた。
音楽室に戻ってくるように
言われた生徒は、言われた
ままに動いた。みんなが座って、
5分後くらいだろうか。
先生が、ビデオを抱えて音楽室
にきた。それを見て、生徒の顔色
が変わったのを見て、
安堵の声をもらした。

ビデオをつけて20分。
ーパチッー
音楽室の明かりが消えた。
それどころか、テレビも消え
明かりもない。電話も出来ない。
普段の生活がどれだけ平和
なのかがわかった。
やる事がなくなった生徒は、
次々に移動を始めた。
保健室に眠りに行く人。
音楽室でドラムを叩く人。
教室からとってきたノートに
絵を描く人。みんなそれぞれに
行動し始めた。
先生もどうしようもなく
職員室に戻って行った。
「もしかしたら帰れるかも
知れないので、帰る準備
をしてください」
そう言われた時、みんな笑顔になった。
でも、それが本当の事ではない事は、
みんなわかっていた。だからすぐに
その笑顔は消え去った。
空も、一向にその顔色を変えよう
とはしなかった。

雨が降っているからか、時間がすぎて
いくに連れ、どんどん寒さが増してきた。
学校のあちこちから探し出した毛布を、
音楽室に全て集めた。
寒さから、体調を崩す生徒も出てきた。

「ええっと、今日は・・・学校に
泊まる事になりました。
ここから、小学校に移動して、
体育館で、一晩乗り切ろうと思います」
みんな不安の色を隠せなかった。
この時、やっと給食を残さず
食べなさいと言った先生の言葉の
意味が分かった。

小学校の体育館にそれぞれ移動した。
まだ5時を過ぎた辺りなのに
もう暗くなり始めていた。
電気が一向につかず、学校中から
集めてきた『ロウソク』に火を
つけて過ごす事になった。
夕食は、給食のあまりの
ご飯で小さいおにぎりと、
コップいっぱいの味噌汁だけ
だった。そんな少ないご飯なのに
食べる気がなく、箸が進まなかった。
やっと食べ終わっても、何もする事
もなく、寒さで、みんなかたを
寄せ合っていた。
何人かは、トイレに行っていたが、
みんな帰ってきた。
先生達がいる所だけについて
いたロウソクの火は、体育館の
あちこちで灯り始めた。
暗さに慣れてきた生徒達は、
次々に話を始めた。怖い話、
今頃やってるテレビの話。・・・

  

Posted by 奄美3340 at 00:35Comments(2)豪雨災害

2011年02月18日

わだつみ苑の周辺で

郵便局の屋根にも妊婦含む数人。

役場の隣なのに屋根にしか
避難できなかった。
それほど水の勢いが
激しかったのだ。
住宅の屋根にも数人雨の中
立ちすくんでいる。
公民館、託児所も孤立している。
水がなかなか引かなかった。

この数時間
軒下に潜り込んだままの少年や
墓石にしがみついたままの人もいた。
島の知り合い同士でピンポイントで
救い出された老人もいた。

住用救急隊がカヌーを抱えて
近くまできた。
大きなカヌーは運ぶ途中で
壊れてしまった。
途中土砂崩れの道路に送電線
が落ちている。
転落している自動車もあった

水の流れが鎮静化したが
なかなか水位は下がらなかった。
マングローブパークの
カヌーが到着した。
それを要所要所でロープを
はりようやくわだつみ苑の
ほうに向かって行った。

役場のOさんが飛びまわっていた。
郵便局の屋根から妊婦さんを
カヌーに乗せ救助した。
電話のKさんも犬と一緒に
カヌーで救助された。
わだつみ苑では警察と消防が
泳いで到着し2名の
動かぬ入所者も含め9名近く
を移動した。
入所者はまともに会話はできず
小刻みに震えていた。
川向こうの食堂「よってみ亭」
に収容した。

奄美大島で最大、道路が56ヶ所
通行止めとなり1400件が床上、
床下浸水となった。  

Posted by 奄美3340 at 06:47Comments(2)豪雨災害

2011年02月16日

わだつみ苑浸水

支所長は11時50分防災無線連絡。
また水位の激しさをみて町内全域
に避難勧告を発令。

消防、警察に支援、さらに自衛隊
に も出動要請


役場の窓からも先ほど避難を
促したにわだつみ苑が見えた。
小雨だっため避難しなかった。
避難しなければと思ったとき
には動けなかった。
今は助けに行きたいが
ボートも無い。
わだつみ苑の状況に気づいた
Kさんは119へ
後ろの川がものすごい氾濫
してて、逃げ遅れている皆さん
今、屋根の上に逃げているが危ない
。」
と電話した。

「わだつみ苑は連絡が取れないか」
「何人かは近くの住宅に
避難していないか」
「連絡がつかない」
「教員住宅の近くだから学校にいる
先生に連絡つかないか?」

小学校のB先生の教員住宅が
がわだつみ苑の近くに位置する。
とのことでそこに連絡すること
になったが
小学校の連絡先が
すぐわからなかった。

私は心の中でツッコミをいれた。
「電話帳があるだろう。
学校って連絡先ぐらい
わからないのか。
こんなときの避難所だろう。」

私はノートパソコンを取り出した。
電子カルテに患者ごとに
電話番号がある。
個人情報だが災害時だ
「こういうときはいいだろう」と

しかし、自宅電話がわかる所は
もう避難したからか電話に出ない。
私は携帯に小学校を登録していた
ので、すぐに小学校へ電話をかける。
学校にいるB先生に連絡つき
奥さんの携帯を教えてもらい
電話する。
すると、奥さんは赤ちゃんと
周囲の住宅の住人といた。
消防へ電話したKさんと犬。
S先生のお母さん、
近所の猫を抱えた青年、
幸い2階は安全な様だ。
携帯で状況がわかってきた。
わだつみ苑の風景は
過酷なものだった。
2つの窓枠に2人ずつ
自動販売機の上に3人

男性職員のHさんが必死に
両腕に1人ずつ抱えていた。
水位は足が届かないぐらい。
あとの2人の姿は無かった。
その2人は入所者の中では
足腰のしっかりした2人
だった為自力でカーテンレール
をつかんでおく様に言われて
屋内にいたのだ。
KさんにはHさんの声が聞こえた。
早く助けを呼んでください。
腕がちぎれそうです。早く

Kさんも電話口でそのまま私に伝えた。
状況を支所長に伝えた。

各地で土砂災害から道路
が寸断されたようだ
住用救急も水に浸かり
いつ来れるかわからない。
名瀬からの救急隊も
すんなりこれない。
Kさんにまた電話連絡すると
「先生早く呼んでください。
職員の方はもう限界です。」
私は「今よんでるからね。
頑張ってもらって」
としかいえなかった。
助けが遅れそうな
マイナスな情報は
伝えられなかった。
Kさんから
「ああっ!水の中にお年寄りが
後ろ向きに沈んだ!
早く読んでくださいよ。」
支所長はヘリ要請をした。
「ヘリも呼んでるから」
そうとしか言えなかった。
こっちも
「早くしてよ」
と思っているが
「頑張って」
としか言えない辛さ。

しかし助けはまだこない。
Hさんの腕はもう限界をこえていた。
  

Posted by 奄美3340 at 17:47Comments(0)豪雨災害

2011年02月09日

濁流にのまれて

役場に入りすぐに
2階に向かった。
水が役場1階を飲み込み
つつあるのは
水の勢いで皆感じていた。

2階につくと支所長や
役場スタッフが
落ち着かなく動き回っている。

道路に面した窓のむこうに
みな目を向けたまま。

先ほどまでなんとか渡れた
役場前が
みるみる水位が上がり
自動販売機がみえなくなり
駐車場によかれとおもって
止めていた車が
水の力でうごいたり
天井まで水没するのを
ただ眺めていた。

ベランダに身を乗り出し
みんなの口が半開きである。
オモチャの様に浮き上がって
ひっくりかえる車も。
自然にため息のような歓声がわく

誰かが言った。
「住用の園はどうなってんだ」
「住宅の人が取り残されている。」
「郵便局の屋根にも人が」
「妊婦もいるぞ」
「小学生、中学生は学校だ。」
その叫び声は椅子に力無く座っていた
私の頭上を飛び交う。

私も思った。
避難直前赤ん坊抱っこした
Mさんは?
「避難所は役場だからね」
と声をかけていた。
しかし、この役場2階に姿がない。
自分らより遅れて避難していたら
赤ちゃん抱いてあの濁流は無理だ。
どこなんだ。
診療所も50m先に見える。
1階部分がほとんど浸水。
妻が避難直前に胃カメラを
レントゲンの台の上にのっけて
いたのに
全部みずに浸かってしまった。
呆然。
鍵をかけたはずの診療所玄関
が水の力かあいているのがみえる。
いろんなものが流されるだろう。

濁流があちこちであっという
間に被害をもたらし
道路が寸断された。
  

Posted by 奄美3340 at 11:45Comments(3)豪雨災害

2011年01月27日

死ぬかも(1番目/3つ)

診療所横で診療所2階に
住む歯科の吉田先生
すみよう薬局の3人
も役場にむかっている。

全員慎重に歩いている。
足元は泥水でみえないから。
腕に資料などであろうか
抱えたものをぬらさぬように。
側溝に足を踏み入れたら怪我する。
怖い

役場前駐車場で全員合流。
そこから足が動かない。

役場前の道路は川だ。
道路のセンターライン付近だろうか。
誘導してくれる方がいた。

役場玄関前の歩道のはずのところが
決壊のところから近いせいか
激しい濁流となっていた。
水が怖く感じたのは初めてだ
泥色をしたうねりのある濁流だ。
流木も流れてくるかも

誰かが玄関側から水道ホースを投げた。
それを二重にして道路の真ん中あたりにいた方と
玄関前の人とで水道ホースをしっかり握ってもらった
全員どうすればいいかわかった。
その間を一人ずつ渡るんだ。
「でも水道ホースかよ」
手を離せば流されておぼれ死ぬかも
濁流はどんどん勢いを増す。
水道ホースだ滑って当然

時間がない
女性から一人ずつ渡った。

一人  
踏ん張る。玄関側でみんなが
「がんばれ!」「しっかり!」
声をかけてくれる。
人に当たって濁流が暴れる
無事到着
一人  
渡る途中荷物を落とした
下流でキャッチ セーフ
そして無事到着


次に妻の番。
ここで妻の手が離れたら
言い残してしまったことが
いっぱいあるよーな

幸い渡り切った。

自分の番だ。
荷物を対岸へ放り投げた。
パソコンバッグは持ったまま

足を動かすと転びそうになる。
移動するために足を早く動かしたいが。
正直死ぬかもと思った。

渡り切った。ほっ

このころ
わだつみ苑でも水位が増していた。
  

Posted by 奄美3340 at 00:35Comments(3)豪雨災害

2011年01月24日

さあ避難だ

診療所に着くともう誰もいない。
診察室で私は電子カルテと
エコー、カメラなどの画像情報
などはいったデータ
バックアップ開始。
早く終了しないかとパソコン
の画面を見つめる。

パソコン画面はいつもの
スピードでバックアップしている
fileの名前の羅列画面が
いつものようにちーんたら流れる。
診療所の玄関側と裏口から廊下へ
浸水が始まった。

急いでくれ心臓がざわめきだした
こんなときパソコンは融通がきかん。
なかな終わらない。いらいら

2-3分で普段する作業だが待っていられない

そのとき妻の声が
ジャージャーの雨音にまじって聞こえた。
診療所の外だ。自宅側にある裏口が開く
もう腰まで水が来てる。危ない。早く

「もう早くして」
妻の緊迫した声。私の手がノートパソコン
の蓋をパタッと閉じた。



パソコンをバックに入れ、往診かばんと
AEDと緊急用のセットの入ったバックを持って
裏口へ水しぶきを上げながら走った。

裏口でもう履物が見つからない。
サンダルがぷかぷか浮いてる。
それををすくうようにはいた。
左右別々だがそれどころでない。
妻は往診かばんを
うけとり首にかけた。

急げ急げ 避難するのだ!!
向かうは2階のある役場住用総合支所  

Posted by 奄美3340 at 23:18Comments(0)豪雨災害

2011年01月21日

やばい 決壊した

車を置いて走って妻のもとへ
戻ることも選択できたが
オデッセイを生かしたかった。

集落の中へ車を走らせた
途中止まりそうになりながらも
高台へたどり着いた。

ほっ
うちの職員DさんHさんは
無事帰れたのだろうか。
Hさんは龍郷だ。

よく冠水する内海のあたりで
車立ち往生してないか?

駐在さんの奥さんと赤ちゃんは?

あせりながら診療所にむかう。
妻に携帯で連絡すると
何で弁当受け取らないの
もうすぐそこに来ているらしいわよ」
土石流見た私は
「いやいやそれどころではないよ、
だって・・・」

そのとき、わが目がその光景
に釘付けになった。
荒れ狂った川があと数センチで
決壊しそうになっていた

私は駈け出した。

役場前に着く。
道路に流れていた
雨水が土石流と同じ
泥色に変わり始めた。
やばい決壊した
直感で感じた。
  

Posted by 奄美3340 at 06:16Comments(0)豪雨災害

2011年01月19日

さあどうする

名瀬から住用まで約20km。
その間2kmクラスのトンネルが3本。
短いトンネルが2本。
約3分の1がトンネルだ。
山間地のためその間何が起こるかわからない。
道路は役場前まで冠水していた。
役場前の駐車場に車を避難させる役場職員。

玄関前で不安そうにしていたご夫婦は孫である
歯科職員に車でなんとか役場にたどり着いた。
以前の災害の時この駐車場に止めた車は
助かったのだ。
しかし・・・

診療所の隣は駐在さん。そこの奥さんは
3か月の赤ちゃんを抱え派出所の事務所に
心配そうにしていた。私は役場に避難する
ように伝えた。
しかし・・・

私は不安な気持ちでオデッセイを走らせた。
が役場のところから対向車が渋滞して動けずにいた。

たこ焼き屋さんの前のカーブを曲がった時。
目を疑った。
50cmぐらいの土石流が行く手を阻んだ。
自分のはしるべき車道がみえない。
急ブレーキ。Uターン。
たこ焼き屋さんの駐車場にいったん止めた。
だがここも不安である。
道路に帰れば渋滞に巻き込まれ立ち往生に。

さあどうする
脇に小さな西中間集落へつながる小道が目に入った。
その道の向こうは冠水しているのが見える。
この集落を通り越して向かいに出れば高台がある。
道は狭いし途中でオデッセイは水につかり
立ち往生の可能性も

さあどうする

  

Posted by 奄美3340 at 17:37Comments(0)豪雨災害

2011年01月19日

10月20日 午前10時40分

15人目の最後の患者。
膝痛のため注射希望で来院。
平静を装う。
あせりながらの注射となる。
最後の患者を職員に車で送らせる。

雨は一向にやむ気配がない。
連続した雨音。怒っているようだ。
名瀬から弁当をもってくるとの情報。

この雨だともしかしたら危ない
そんな考えが浮かぶ。
この予感は当たることになる。

職員と小物を高い所にあげる作業中
の妻が私に言った。
「患者さんも来ないし途中まで車で
行って弁当受け取ったら、みんな自分で弁当
持ってきてないんだから」
まともな理由である。拒否できない。しかし
・・・
もしものときに1台は車を使えるように
私のオデッセイを高台へ移動することにした。
そのついでに名瀬方向に走り弁当を受け取る作戦。

妻の昨年初めて買った新車フリードを車庫へ移動。
家の周囲の平地より10cmほど高いのだ。
診療所前より高いのだが水位はマフラーがつかるほど。
水が入らないか心配なためアクセルを常に吹かしながら。

雨はやみそうもない。
水位はかつてない表情を見せようとしていた。
ただならぬ雨に妻も弁当またず職員2人を
帰らせることにした。
役場前の道路は冠水して通行できそうもない。
駐車場の中をくぐり抜けなんとか帰った。
  

Posted by 奄美3340 at 01:09Comments(2)豪雨災害

2011年01月18日

10月20日午前外来

「すこやかな住用地域づくり。
不安を少しでも減らしたい。」

をモットーに無医村にやってきた。6年前の事だ。
この日もいつもと同じように雨の中来て下さった
患者さん達。診察開始前いつもの顔ぶれであった。
知らない顔はいない。妻と職員が患者対応してくれる。
8時40分、朝礼。
時間外受診や気になる患者さんの報告。それに
「今日は昼休みに勉強会。弁当名瀬からはこんでもらいます。」
「大事なものは机やベッドの上に濡れない様にしときましょう」
(危機感ゼロに近いでした。少なくとも私は)
いつものように診察スタート。
私はどんな病気の方でも診ます。
点滴の方からスタートして、腰痛、膝痛、血圧、ぜんそく
小児のかぜも当日3人みていた。

診察スタートして1時間。雨足はさほど強く感じなかった。
朝の警報メールの意味はわからなかった。
20cmほど道路が冠水した。
(診療所は川の近くで集落で一番低い所にあった。それぐらい今までも冠水する事はあった。20年前の台風の大雨のとき大潮と重なり1mほど
浸水した跡が診療所の壁や医師官舎の壁に残っていた。)

運転手で慣れた人は車を止めない。少し高い歩道を走らせる。
車が通ったあと波立った水が何か暗示していた。
ネズミは避難していたのかも

診療所の玄関先で会計も終わった患者夫婦が
冠水のため帰れなくなったと不安そうにたたずんでいる。
妻がすぐ近くの役場に電話で
「玄関先まで水があがってきてます。土嚢持って来てもらえないですか」
まだ危機感無かった。雨はやみそうもなかった。
駆けつけた役場の方も少しいつもと様子が違っていた。
私には根拠ない勘違いがあった。
20年前より河川工事してるだろうし浸水水位は低いはず  

Posted by 奄美3340 at 01:27Comments(2)豪雨災害

2011年01月17日

10.20あの日

10月20日早朝、5時頃だったか
私の携帯のメール着信音が朝っぱら早くになりだした。
いつも聞かない音だ。
「なんでこんな朝早くまったくもー」
ネズミのせいもあり寝不足の妻も起きない。

しばらくしてまたなりやがった。
いやいやながら起きて携帯確認。
無料の警報メールであった。
「うるさい。寝かせろ
と思った。雨は確かに前日より降り続いているのは分かっていた。
数時間後にとんでもないことになるとは思ってみなかった。
(メール送るシステム作ってくれた方すみません。今後はすぐ避難準備します。)

それから、また軽い眠りについた。

朝いつものように子どもたちは朝食とった。
「最近ネズミが壁の中で動き回ってるね」と
会話していた。

誰もその夜ネズミは命を落とし
家族は離れ離れになるとは思っていなかった。

普通に学校にいった。
私たち夫婦もいつものように
同じ敷地の診療所に朝礼のため出かけた。

まったくいつものように

ネズミはこれから起こることを知っていたのか・・・  

Posted by 奄美3340 at 22:04Comments(4)豪雨災害