2024年04月21日
自己紹介(R6年度)
看護学校の講義始まりました。自己紹介します。
生年月日 昭和36年10月15日(満62才) 聞かれたらいつも28歳
鹿児島県姶良郡福山町生まれ 鹿児島市内谷山に3歳時引越し、
谷山小(当時日本一マンモス校)、4年生から東谷山小、谷山中学校
昭和55年3月 鹿児島県立甲南高校卒業
昭和61年3月 鹿児島大学医学部卒業
平成16年4月 住用村国民健康保険直営診療所(公設民営)開業
平成20年 奄美市住用国民健康保険診療所と改名
なんでも相談に乗るスタンスで地域医療しています。
家族は妻と大阪に社会福祉士の大学に通ったけど今奄美でYosaやってる長女と柔道整復師の専門学校から奄美にいる長男。大島高校から2浪して川崎医大(現在3年)に一昨年入った次男。
私は小さい頃は工作が好きで自動車修理工や和食の調理士(板前)に憧れ高校に行くつもりはなかった。というのも、中卒で土建業の父の教え「腕に技術を持て。人からいつまでも使われるな」を達成するのは職人と考えていたから。3つ上の兄が甲南高校から九州大学の歯学部合格のあと2期校受験で鹿児島大学の医学部に合格し私の人生が変わった。福岡下宿をする予定の兄が自宅通学へ変更。(貧乏だったから自宅通学優先)私は医師という想定外の技術職に「兄がなれるのなら自分もなる」という理由で(三者面談で工業高校機械科と決まっていたのをあっさり兄と同じ甲南高校へ変更し担任に叱られた)。甲南高校の受験会場で同級生に「お前試験会場間違ってるぞ」と言われるほど塾通いもしてない私は場違いな感じであった。ここで奇跡が起こる、というのは受験当日、兄が予想した問題が数学と理科でそのまま何題も出題された。(兄は試験問題を知っていたのか?と今でも不思議だ)。運良く合格したがにもかかわらず最下位で合格したのが後にわかった。
数学の最初の授業で「中学の復習をする」言われたが全くわからなかった。数学の教師が私の耳を引っ張り床に倒し、私の頭を足で床に押し付けぐりぐりした。黒板の数字が涙で滲んだ。「このままでは3年間つらいぞ。勉強するしかない」、とその日からガリ勉し4時間半睡眠を3年間続けた。担任の英語の先生におだてられみるみる成績が上がり学年トップになった。東大受験を勧められたが「鹿児島大学医学部」に行くことしか考えてなかった。(今考えるともったいない) 泳げなかったので高校では水泳部に入ったが部員がいなかった。部を存続するためにだけの部員だった。後輩に県の記録を作る下家君やオリンピック選手の宮下君からは何の挨拶もない(笑)。ガリ勉でドリル、ドリルだったので実力テストは弱かったが医学部受験のときは楽勝で合格した。医学部ではやったことない弓道部に所属し、かき氷の白熊をかけて当てっこするゲーム感覚で同期の荻田君と練習したら的中率上がって、2年生のとき西医体で2人で個人戦1,2フィニッシュした。キャプテンになったときは全医体にまでいった。最終的に二段までとった。
自治会活動や学友会もしたが原理研究会の短大のお姉さまに惹かれたり、真光教に同級生の荻田君と行ったりもした。クラスでは臨床実習のとき各科の医局長の先生と学生との飲み会を世話をするかかりだった。またみんなのために全国の研修先の情報をみんなに教えた。
卒試は追試で受かったものの医師国家試験ではやる気が全く出なかった。「こんだけすれば通る」と言われても全くやる気でなかった。友人に引っ張られてなんとか過去問6割ぐらい目を通した。不安な気持ちで熊本の受験会場に入り試験が始まると間もなく「過去に経験したことがない突然の頭痛」に襲われた。「落ちた」と思った。しかし、合格したので超嬉しくて、就職した鹿児島生協病院の医局秘書に抱きつきプロポーズした。(医者になって最初で最後の酔っぱらい)
もともとは外科医で奄美では肝臓がん食道がんや肺がん手術を2人体制の外科でやっちゃってました。
ガン末期の緩和ケアにも早くから取り組み医療用麻薬使用していました。
また勤務医時代ヒューマンエラーの学習会、病院屋上でビアパーティを企画したり、介護保険スタートにあたりケアマネージャーの職員勉強会を企画したりしてました。
平成16年に無医村の住用村長が当時勤めていた病院医局に「週に1回でも」と医師派遣要請に来るも医局の結論はNO。そのあと後輩の内科医が「自分が行ったらどうなるかな?」と。そこから自分も考えてみた。そして平成16年、退職し住用村に行くことに。どうせやるなら楽しく診療したいので
電子カルテ(Daynamics(http://www.superdyn.jp/))や診療を楽しくするもの(RsBase(http://rsbase.jp/)、音声入力http://sp.advanced-media.co.jp/)も導入。
地域密着型で集落の行事にも参加。在宅医療も要求があれば可能な限り対応。施設での看取りも開始。
平成22年10月20日、豪雨災害で診療所浸水。往診カバンと電子カルテのノートパソコンとAEDを担いで避難した。災害当日より医療を切れ目なく行った。避難所の医療統括責任者。自宅も浸水したため避難所生活2週間。避難所での仮設診療所での診療が年末まで続いた。平成23年11月5日、豪雨で孤立した集落の重症患者の海上保安庁のボートで救急搬送。
平成24年4月、機能強化型在宅ネットワークつくり医師不在時のバックアップ体制作る。
医療機関だけでなく介護関係ほか他職種とも地域連携つくり(ポンデリング)に関心がある。
平成24年9月29日。台風による大雨で再び診療所浸水。週末であったため土日で復旧作業終了。
平成26年3月在宅ケアを支える診療所・市民全国ネットワークの第20回全国の集いin岡山2014 奄美プレ大会実行委員長
平成26年5月に奄美で行われる国保の第28回地域医療現地研究会の奄美現地プロジェクトチームのリーダー。
平成27年9月第18回 日本在宅ホスピス協会 全国大会 in 奄美
ネリヤの徳田先生が大会長で私が実行委員長でした。
それからエンドオブライフ・ケア協会https://endoflifecare.or.jp/
の援助者養成基礎講座を受けました。
同じころ高校バレーやっていた長男の監督からの体罰暴言事件があり
鹿児島県県相手に裁判し今年平成30年3月和解しました。http://sumiyou1.amamin.jp/
今ハマっているのは、睡眠医学とメンタリストでダイゴと「炎の講演家」の鴨頭嘉人のYoutube
TikTokダイエット、鴨頭さんの奥さんの鴨明ダイエット、パレオダイエット
5年前の春から看護学校の講義で生物学基礎を講義中。
実習に来た学生さんとは色んな話をしたいと思います。あっという間に研修時間は過ぎますので遠慮することなく気づいたことは教えてください。
5年前医師会でコロナ担当となってからバレーもやめ運動不足。現在ホテルと施設担当となってます。毎日ホテルと朝晩zoomミーティングしていました。(令和5年11月で終了)
コロナが落ち着いた時間を利用して3月、地域医療学会の「地域総合診療専門医」を取得しました。
令和5年末、鹿児島の両親がそろって施設入所となり、介護問題実感しているところです。
母親は糖尿病あって下血反復、令和6年2月コロナにもなって面会制限(3月11日面会制限解除)。父親は難聴から認知が進みそうで心配。
血液型B型
ケアマネージャー、産業医、認知症サポート医、医師会A会員、奄美大島郡医師会理事(地域連携、コロナ担当)、日本医師会かかりつけ医、日本専門医機構の特任指導医、コロナの合間をぬって、研修を受け令和6年4月1日より日本地域医療学会の地域医療総合診療専門医、地域総合診療専門医を取得しました。
アマチュア無線電話級(過去)、弓道二段(大学で始めて西医大個人準優勝)、普通自動車免許(学生時代は事故多発者)、
住用Doreams(C級バレーボールチームの監督兼選手)2018年まで
100m毎年自己ベスト更新 13秒6
太っているにもかかわらず、足負担になったためか外反母趾になり妻のフットケアによるオーダーメードインソール(http://feetindesign.jp/)使用し改善。
1年に1秒ずつ縮め東京オリンピックで9秒6になり、ボルトに勝つ予定(ボルト引退したから私の勝ち?)
(162cm 75kg)
●ホームページ https://sumiyo-clinic.com/
●ブログ(アドレス http://sumiyou.amamin.jp/)
●facebook(アドレス 個人https://www.facebook.com/nozakiy
診療所 https://www.facebook.com/sumiyoclinic/)
を見てください。(最近更新してないですがこれを機に更新しようかな)
妻が名瀬で奄美フット(アドレス https://amamifoot.com )、キャンナス奄美(https://pineridge.tech/cannus/)をしております。
靴の中敷(インソール)こちらも健康アップに良いですよ。のぞいてみてください。
キャンナス奄美は困ったときの有償ボランティアです。
Posted by 奄美3340 at 13:01│Comments(0)
│日記