2011年03月15日
東日本巨大地震に自分は何かできないか
東日本巨大地震はすごい被害をもたらしている。
まだ全容はつかめないが被害は広範囲におよび
原発の放射能まで心配が出てきて住民の不安は
ものすごいであろう。
今後も余震や新たな津波も心配。
こんな状況で自分には何ができるのか。
衝撃映像だけずっとメディアに見せられて
子どもたちが心配になったので
昨日も子供の集まりがあり黙とうしたあと
子供たちに話をした。
「みんなテレビでみて知ってるだろうけど
すごい状況を見て。何ができる?」
「ふだんやれることをしっかりすることだよ」
「あいさつしたり、勉強したり、親の言うこと聞いたり」
そんな話だ。
自分は
応援メッセージを送るつもりで
ブログを書くこととする。
まだ全容はつかめないが被害は広範囲におよび
原発の放射能まで心配が出てきて住民の不安は
ものすごいであろう。
今後も余震や新たな津波も心配。
こんな状況で自分には何ができるのか。
衝撃映像だけずっとメディアに見せられて
子どもたちが心配になったので
昨日も子供の集まりがあり黙とうしたあと
子供たちに話をした。
「みんなテレビでみて知ってるだろうけど
すごい状況を見て。何ができる?」
「ふだんやれることをしっかりすることだよ」
「あいさつしたり、勉強したり、親の言うこと聞いたり」
そんな話だ。
自分は
応援メッセージを送るつもりで
ブログを書くこととする。
2011年03月15日
ボートに乗ってよってみ亭へ
名瀬からの救急隊は城集落
のがけ崩れの横をボートを
かついで、東城の内海の
所では海を泳いでようやく
3時間かけて到着。
夕方になっていた。
携帯がつながらなくなっていた。
「遅い!!」
ツッコミ入れたい私に
疲れをみせずT隊長
「先生このボートでよってみ亭に。
乗ってください。」

そいうと私だけボートに乗せた。
数名の隊員でボートを支えながら
50mほどを役場と診療所の間の
冠水した道路を渡らせてくれた。
この水は住宅が汲み取り式の
トイレだったため汚水である。
しかし、彼らはダイバーの
スーツをきていたので
私のようにはならなかった。
よってみ亭についてみると
もう夕方の為薄暗かった。
入り口付近には立ち往生
した車の運転手の方々が数人。

奥にはいると和室に
9名が寝かされていた。
小刻みに震え数名はほとんど
うごいていない。
死亡した2人はすぐにわかった。
診断時刻午後5時55分。
他の7人も32度台、低体温である。
生存者のうち2人は水を
おそらく誤嚥したのであろう
低酸素(酸素飽和度70-80%台)
だった。1名は認知症で血圧も
測らしてくれない。暴言を
吐きまくってる
酸素吸入必要だが
往診かばんと緊急セット
しかない
救急隊に酸素お願いするも
宇検から運ぶしかない
つくまで持つか?
ただただ見守るしかない。
必要な医療材料があれば
酸素吸わせて点滴したり
抗生剤点滴していたであろうが。
救急隊から骨折や外傷で
縫合が必要な
患者がいるとの情報入る。
無線でなく情報をもって
往復しているのだ。
ここの患者も重傷だが
経過観察するしかない。
他の重症患者や処置が
必要な患者情報はおそらく
役場に集中する。
私は決めた。
役場に戻ろう。
いつ急変してもおかしく
ないわだつみ苑の方々は
入院患者それも術直後患者
みたいなものだ。
しかし
他の患者も出現するかわからない。
役場で情報察知しながら
この人たちを
経過観察していくしかない。
帰りはもう救急隊はいない。
あたりは闇に包まれていた。
自力で役場に戻るしかない。
その途中に骨折患者の家が
あり遠まわりだが往診した。
腰まで泥水それも汚水まみれに
つかりながら暗闇の中だ。
側溝に足を落とさないように
気をつけながら。
しかし、患者はいなかった。
家人がおり「役場に行ったよ」と。
がくり。携帯でも通じれば
当時、役場の中で妻の美香が
この患者は応急手当で
段ボールを副木
にして処置していた。
のがけ崩れの横をボートを
かついで、東城の内海の
所では海を泳いでようやく
3時間かけて到着。
夕方になっていた。
携帯がつながらなくなっていた。
「遅い!!」
ツッコミ入れたい私に
疲れをみせずT隊長
「先生このボートでよってみ亭に。
乗ってください。」

そいうと私だけボートに乗せた。
数名の隊員でボートを支えながら
50mほどを役場と診療所の間の
冠水した道路を渡らせてくれた。
この水は住宅が汲み取り式の
トイレだったため汚水である。
しかし、彼らはダイバーの
スーツをきていたので
私のようにはならなかった。
よってみ亭についてみると
もう夕方の為薄暗かった。
入り口付近には立ち往生
した車の運転手の方々が数人。

奥にはいると和室に
9名が寝かされていた。
小刻みに震え数名はほとんど
うごいていない。
死亡した2人はすぐにわかった。
診断時刻午後5時55分。
他の7人も32度台、低体温である。
生存者のうち2人は水を
おそらく誤嚥したのであろう
低酸素(酸素飽和度70-80%台)
だった。1名は認知症で血圧も
測らしてくれない。暴言を
吐きまくってる
酸素吸入必要だが
往診かばんと緊急セット
しかない
救急隊に酸素お願いするも
宇検から運ぶしかない
つくまで持つか?
ただただ見守るしかない。
必要な医療材料があれば
酸素吸わせて点滴したり
抗生剤点滴していたであろうが。
救急隊から骨折や外傷で
縫合が必要な
患者がいるとの情報入る。
無線でなく情報をもって
往復しているのだ。
ここの患者も重傷だが
経過観察するしかない。
他の重症患者や処置が
必要な患者情報はおそらく
役場に集中する。
私は決めた。
役場に戻ろう。
いつ急変してもおかしく
ないわだつみ苑の方々は
入院患者それも術直後患者
みたいなものだ。
しかし
他の患者も出現するかわからない。
役場で情報察知しながら
この人たちを
経過観察していくしかない。
帰りはもう救急隊はいない。
あたりは闇に包まれていた。
自力で役場に戻るしかない。
その途中に骨折患者の家が
あり遠まわりだが往診した。
腰まで泥水それも汚水まみれに
つかりながら暗闇の中だ。
側溝に足を落とさないように
気をつけながら。
しかし、患者はいなかった。
家人がおり「役場に行ったよ」と。
がくり。携帯でも通じれば
当時、役場の中で妻の美香が
この患者は応急手当で
段ボールを副木
にして処置していた。